2024年


ーーー4/2−−−  春分の日を英語で


 
春分の日に、突然思った。春分の日は、英語で何と言うのだろう? 調べてみたら、vernal equinox day だった。springなんとかdayかと思いきや、聞いたことも無い言葉だったので、ちょっと驚いた。

 春分の日という言葉の意味は、中学生でも知っている。夏至、冬至などと共に、天文学に関するもっとも身近な言葉でもある。そんな重要単語を、英語で知らなかったと言うのは、我ながら情けない気がした。普段から、「これは英語で何と言うのだろうか?」と自問することが、会社勤めをしていた頃からの、言わば癖のようになっている。

 それをカミさんに話したら、こんな返事が返ってきた。

 「英語でどう言うかなんて、全然関心無いわ。だいいち、春分の日って、日本だけじゃないの?」




ーーー4/9−−−  軽度の事故は好ましい


 
ずいぶん前の話だが、子供たちが小学生だった頃、夏に家族で爺ヶ岳を登りに行った。その時次女は10歳で、このように高い山に登るのは初めてだった。無事に山頂に着き、昼食を食べてから、下山に掛かった。登ってきた登山道を下るのであるが、山頂からしばらくの間は、岩がゴツゴツとした道を下ることになる。

 その時、次女は四つん這いになって下ろうとした。私が、どうしたのかと訊ねると、「転びそうで怖いからこうするの」と言った。私は、「注意をして歩けば転ぶことは無いし、仮に転んだとしても転落するような事は無いから、立って歩きなさい」とアドバイスをした。四つん這いでは、歩く速度が遅過ぎるからである。

 娘は、恐る恐る立って歩き出したが、そのうちに慣れたようである。ハイマツ帯に入る頃には、良いペースで歩けるようになった。

 こんな古いエピソードを持ち出して、何を伝えようとしているかと言えば、慣れた者には何ともない事でも、初めての者にとっては、恐る恐るということがあるということ。不慣れな者は、「石橋を叩いて渡る」の故事どおり、心配する必要が無いことにまで注意を払うのである。しかしそれは、悪い事では無い。

 登山は、多かれ少なかれ危険を伴う行為である。滑落、転落などの事故、あるいは過労、低体温症などの障害はもとより、たとえ捻挫程度の故障でも、動けなくなったらたちまちピンチに陥る。だから、かえって慎重すぎるくらいで良いと思う。問題なのはその逆、安全を過信する事の方である。

 天候は問題無いか、自分の体力は十分か、岩場や雪渓などを歩く技術に不足は無いか、などの判断をする際に、安全を過信すれば事故の可能性が高くなる。その過信の原因は、経験不足である。経験が無い事に対しては、慎重であるべきだが、そうでない人も世の中には居る。他の人がやっているから、自分も大丈夫だろうという理屈で、未経験な事に対して、大胆な行動に出る人もいるのだ。

 ところで、安全の見極めには、経験を重ねることが大切だが、その経験と言うのが、時として厄介である。慎重さの度が過ぎて、「石橋を叩いて渡る」ような経験ばかりを繰り返していては、進歩が無い。グレードアップしていくためには、新しい事、少々危ない事にもチャレンジする必要がある。そのようなチャレンジを通して、危険を感じ、ヒヤッとするような経験をすれば、安全意識が身に付いていく。「ここまでは安全、ここから先は危険」という感覚が、鍛えられていくのである。

 だから、軽度の事故を経験することは、むしろ好ましい。反対に、ヤバい事を繰り返しながら、幸運にも一度もトラブルに見舞われなかった、というような方が危ない。ボーダーラインを越えているという自覚が無いまま、危険な領域に入り込んでいる人は、ある日突然訪れる初めての事故で、取り返しがつかない結果を招く恐れがある。





ーーー4/16−−− 大木の伐倒


 
先月の末に、今シーズン初のマツタケ山作業を行った。この日の作業の主たる目的は、クヌギの大木を伐倒すること。この木は、大量の落ち葉を散らすので、マツタケ山の管理に支障をきたすと判断されていた。作秋の時点で伐倒する方針を決め、年が明けて最初の作業日に実行することになった。

 秋に下見をした時に、リーダーから「大竹さん、頼むね」と言われた。チェーンソーを所有して、山仕事で使うメンバーは何人かいるが、私のチェーンソーが一番馬力があり、切れ味も良い。それで太い木の伐倒の役は、私に回ってくる。二年前も、根元の径が50センチほどのクヌギの大木を切り倒した。

 チェーンソーは、当地に住み始めてから早い時期に購入した。薪ストーブで燃やす薪を作る際に、丸太を切断するのが目的だった。チェーンソーの扱いに慣れていくうちに、たまに必要に迫られて立木の伐倒作業をやるようになった。伐倒のやり方に関して、専門家から指導を受けたことはない。本で調べたり、ネットの情報を見たりして、やり方を知り、あとは実地で経験を重ねてきた。

 10年ほど前からマツタケ山の整備作業が始まり、チェーンソーの出番が増えた。不要な立木を切り倒し、幹や枝を切断してまとめる作業に使うのである。立木のサイズは、径が10〜15センチ程度のものがほとんどだった。径が50センチもある大木を伐倒したのは、上に述べた二年前が初めてであった。その時は、比較的素直な木だったので、難しさは感じなかったが、緊張感はあった。木が地面に倒れる時の轟音が、印象的だった。

 今回の木は、歩いて登るのがやっとと言うくらいの急斜面に生えていて、しかも下方に向かって大きく傾いて曲がっている。これは、前回とは比べものにならないくらい、条件が悪いように感じられた。

 以前、伐倒に関する事故の事例をネットで調べたことがあった。その中に、傾いた木、曲がった木は要注意と書かれていたことを思い出した。あらためて調べて見たら、いくつかのサイトに解説があった。

 立木の伐倒は、通常は次のような手順で行われる。まず、倒す側(木の重心が偏っている側)に「受け口」と呼ばれるV字型の切れ目を入れる。次に反対側から「追い口」と呼ばれる切り目を入れる。追い口を切り進めると、木は偏った重心による力に抗しきれなくなり、受け口と追い口の間に残った部分(これをツルと呼ぶ)が蝶つがいの様になって、倒れる。ツルが正常に機能すると、木はチェーンソーを入れた部分で綺麗に分離、切断される。

 傾いたり、曲がっている木は、この通常の方法では危険な場合があるという解説が有った。そういう木は、背側(傾き、曲りの反対側)に大きな張力が内在されており、追い口を切り進めるとその張力が解放され、木の幹が縦に裂けることがある。木が裂けると、立木全体に想定外の動きが生じ、幹が跳ねて逃げ遅れた作業員を直撃し、死亡に至らせた事例もあったとか。それは想像するだに恐ろしい光景である。

 そういう事例を知ってから、例のクヌギの大木が頭から離れなくなった。春の作業が始まるまでの3ヶ月ほど、繰り返し伐倒作業の恐怖が頭をよぎった。どのようにしたら安全に作業を行なえるか、いろいろ思案した。しかし、経験が無いことなので、いくら考えても安心は得られない。悶々とするうちに、春がやって来た。

 山の雪が消え、寒さが緩んで、そろそろ作業日の予定が決まりそうな頃、再びネットで調べた。これまでも見たサイトの情報が、にわかに具体性を帯びたように感じられた。それは「追いヅル切り」という方法であった。この方法は、追い口を切り込む前に、チェーンソーで突っ込み切りを入れ、幹の中央部を切って透き、しかる後に追い口を切り込むのである。切り込んで背側に残った部分を切断すれば、受け口と突っ込み切りの間のツルが蝶つがいの様になって、木は倒れるのである。この方法であれば、幹が縦に裂けることは起きないので、安全だと言うわけだ。

 さて、作業の当日、山に入って現場に着くと、例の大木が異形で待ち構えていた。斜面を這い登るようにして根元に寄ると、幹は思った以上に太かった。秋に見た時は、離れた場所からだったので、そんなに太くは見えなかったのである。

 作業開始。まず、切断する部分の周囲に、チョークで目印の線を引く。後から思えば、この線を印したことが良かったようである。次に、受け口を切る。急斜面で足場が悪く、しかも木が傾いているので、チェーンソーを扱うのにひどく疲れた。

 続いて突っ込み切りを行う。チェーンソーをそのように使うのは、これまでやったことが無い。初めての事を、こんな場所で行わねばならない不条理を感じたが、仕方ない。チョークの線に沿ってチェーンソーを突っ込むようにして、切り込んだ。私のチェーンソー(35センチ)では、刃の根元まで突っ込んでも、向こう側に届かない。そこで、ある程度切り広げてから逆サイドに移動し、反対側から切りこんだ。両側からの突っ込み切りが、幹の内部で出会う可能性は、場所が場所だけに、極めて小さいように思われた。しかし、上手い具合に切り口が繋がり、チェーンソーを引き抜いたら向こう側の光が見えた。ほぼ勘に頼って切り込んだわけだが、チョークで目印の線を引いておいたのが、功を奏したようである。

 最後に追い口を切るのだが、幹の側に立つと危ない気がしたので、幹の根元の上に立ち、そばに生えていた立木を左手で掴んで体を安定させ、右手でチェーンソーを握って、切り込んだ。しばらく切り進めると、ミシッと音がして幹の繊維が切れ、みるみる傾き、大音響と共に大木は斜面の数メートル下にぶっ飛んだ。その瞬間の安堵感と、しばらく後に訪れた達成感を、何と表現したら良いだろう。

 切株の寸法を計ってみた。傾いた木なので、断面は楕円形をしている。直径の最大が60センチ、最小が53センチであった。これは、私が伐倒した木の最大であり、新記録となった。

 山から自宅に戻り、作業が成功したことをカミさんに話した。興奮を抑えきれずに喋る私の話を、一通り聞いた後、彼女は、「頼まれたからとはいえ、危ない事はほどほどにしてよ」と言った。




ーーー4/23−−−  24年前のウイスキー


 近所のお宅に招かれて、応接室で打ち合わせをした。家の主はマツタケの会のメンバーで、気の置けない間柄である。その部屋の中に、私の興味を激しく引いた品物があった。サイドボードの中におかれていたスコッチウイスキーの「ボウモア」である。

 この地の人たちは、ほとんどウイスキーを飲まない。私の個人的な印象であるが、まず間違いないと思う。飲み会にウイスキーが供されたことは、これまで一度も無い。ウイスキーを話題にしようとしても、乗ってくる人は居なかったし、日常的に飲んでいるという人も見たことが無い。逆に、酒好きを自称しながら、「ウイスキーだけはダメだ」という人もいたほどである。

 私を応接室に招いた主は、仕事柄いろいろ貰い物があるらしい。サイドボードにも、それと思われる高級ウイスキーやブランデーの瓶が並んでいた。しかし、ジョニ黒は納得できるとしても、ボウモアは解せない。届け物と言うのは、相手が喜ぶ物、あるいは相手が価値を認める物でなければ意味が無い。ウイスキーと無縁の社会で、限られたマニアしか名前を知らないようなウイスキーを贈ることは、的外れとしか思えない。

 打ち合わせが済んでから、私はこらえきれなくなってその事を切り出した。「良いお酒がありますね」と口火を切り、ボウモアがスコットランドのアイラ島で産するシングルモルト・ウイスキーであることを述べた。そして、スモ―キーな甘い香りに特徴があり、日本でもファンが多く、私も大好きなウイスキーの一つであると伝えた。

 すると主は、「大竹さん、そんなに好きなら持って行ってよ」と言った。その方は、二年ほど前の健康診断で内臓疾患が見つかり、医者から酒を禁止されている。私は心の中でガッツポーズをした。完璧に、私が描いたストーリー通りに事が運んだのである。酒飲みとは、かように意地汚い者なのである。

 そのボトルには、まだ手を付けた事が無いと言った。それは、ますます良い。しかし、続く話を聞いて、私はギョッとした。外国帰りの人からお土産に貰った物だが、それは24年前の事だったと言うのである。そして、そんなに古くても飲めるだろうかと言った。

 私は、以前国産の高級ウイスキーでかなり古いものを飲んだことがある。人から貰った時点で40年経っていた。酒を飲まない人が放ったらかしにしていた物である。それを面白がって、さらに10年置き、50年の節目を迎えた時に、酒好きの仲間のパーティーで披露した。ボトルのコルク栓はしっかりしていたが、アルコール分はすっかり抜けていて、とても飲めない代物だった。そんな話をしたら、ボウモアの持ち主は、ちょっと味を見てくれと言った。

 紙製の丸箱から瓶を取り出して見ると、液位が明らかに低かった。栓を抜くことは出来たが、コルクが傷んでボロボロしていた。グラスに注いで口に含むと、ボウモアの香りは間違いなかった。しかし、アルコール分はあらかた抜けている感じだった。

 貰って自宅に戻り、あらためて飲んだが、やはり若い娘の溌剌たる輝きは失われ、老婆のような渋い味だった。アルコール濃度を上げるために、普段飲んでいる安ウイスキーを加えて飲むことにした。好物のボウモアであるが、さすがに手が伸びない。時折思い出したように飲む程度だから、二ケ月経った今でもまだ残っている。

 それにしても、24年も経ったボウモアを飲んだ人は、世の中に少ないと思う。興味を覚えた人には、「アルコールは抜けていたが、香りはやはりボウモアそのものだった」と伝えることにしよう。




ーーー4/30−−  ケーナでロングトーン


 
ケーナという楽器を手に染めてから、25年近く経つ。先生に就くわけでなく、教室に通うわけでも無かったので、つまり自己流でやって来たので、紆余曲折の繰り返しだった。だいぶ前だが、南米楽器を扱う店の店主から「一人でやっていて、良く続きますね」と言われたことがある。先生も仲間も無しでやっている人は、たいてい挫折して止めてしまうそうである。その意味では、私はこの楽器に見放されなかったと言えようか。

 6年前からチャランゴを始めた。これは先生に就いて教わっている。趣味の領域の事を、金を払って習うのは、ほぼ人生初めての経験である。ほぼと言うのは、まだ学生だった頃、半年ほどであるが、フルートを教わったことがあった。先生は音大卒の若い女性。とても厳しく冷酷なレッスンで、辟易したものだった。それでも、ほんの数回のレッスンで得たものは、その後の人生で確実に役に立った。

 チャランゴのレッスンに通うようになってから、教わるということの大切さを再認識した。その道のプロから教わると言うのは、自己流で通したり、中途半端な素人仲間から教わるのとは、全く違うのである。古い時代の下町の旦那衆の間では、習い事を披露し合うという文化があったようだが、それは大人のたしなみだったのだろう。金をかければ、その見返りを楽しめるのである。

 チャランゴを習い始めてから、ケーナの方は疎遠になった。ケーナは音が大きく、チャランゴのように気軽に練習ができない。窓を開けている時期は、周囲に気を使う。つい面倒になり、曲の練習などはやらなくなった。しかし、全く何もしないと、下手になっていく気がして、音出し練習だけは、細々と続けることにした。日に数分程度の時間である。それでもなるべく毎日行うようにした。

 ケーナは尺八と同じ原理で音を出す。以前尺八の名人が、こんな事を言っていた。「唇を締めて、針のように小さい穴にして、出し惜しみをするように息を出して鳴らすのです。そうすれば、良く響く音が出るのです」。その「出し惜しみ」という表現が印象に残った。これまでは、ケーナの演奏でそれを意識したことは無かった。このたびの音出し練習では、そこを重点に据えることにした。曲を奏でたりせず、音出しをするだけなので、むしろこういう重点練習のチャンスだと思った。

 唇を締めて小さい穴から息を出す練習は、ロングトーンが最適である。単一の音を、一息で長く続ける練習である。これまでは、10秒も続かなかった。それでも曲は吹けたのである。それを、30秒程度持続させることを目標にした。これは、かなり困難な課題であると思われた。よほど唇の穴を小さくしなければ、30秒も息が続かないのである。そして、息を細くすると、正確に歌口に当てなければ、音が出ない。いまさら音が出ないような練習は、徒労感が大きい。しかし、すぐに上手くなりたいと言うような欲を捨てれば、毎日少しずつ、淡々と続けることができた。

 細く長く音を出すというのは、とても小さい音、pp(ピアニシモ)の領域である。一般的に、吹奏楽器は、大きい音よりも、小さい音を出す方が難しい。ちなみに、息が太ければ、大ざっぱに歌口に息を当てるだけで、大きな音が出る。しかし、雑音も大きくなり、綺麗な音にはならない。

 そんな音出しオンリーの練習を、無欲に3年ほど続けたら、知らないうちに上達した。ほぼ全音域で、30秒のロングトーンが出来るようになった。この年齢になっても、練習の成果は得られるものだと、しみじみとした感動があった。

 「出し惜しみ」で息を使えば、音色がクリヤーになり、音の強弱も付けられる。そうすれば、演奏の表現が豊かになる。かくして、ケーナは再び表舞台に立ちそうな気配になってきた。